ふれあいの水辺 北沢川緑道別館ホームへ

羽根木公園南東の方角 代田、代沢、北沢をせせらぎが流れている。「ふれあいの水辺」北沢川緑道(特に代田近辺を代田川緑道と呼ぶ)だ。世田谷ウォーキングフォーラム羽根木公園グループはここをベースに健康ウォーキングを実施している。「ふれあいの水辺」は環七宮前橋から淡島下代田橋までのわずか1.1キロメートルの区間であるが、18年の歳月と10億円を超える多額の税金を投入して平成20年に完工したそうだある。その結果水と緑の自然が復活し、心安らぐ新たな空間が生まれた。高齢者の散策に特にいい緑道になった。終点の淡島のせせらぎ公園にはゲートボールのグランドがある。一方幼児の砂場やあそぶところもある。朝な夕なと散策する人が増えて、一日2,000人に数えられるほどになったそうである。四季の草花や野鳥がわれわれの目を楽しませてくれる。また、ここは桜並木で約150本が咲く桜の名所になっている。

(注) 北沢川緑道は、上流は赤堤から下流の代田・代沢・池尻までの延長約4.3キロで、かん木や雑木類が植えられ、四季折々の花が咲く緑の遊歩道となっている。北沢川の水源は旧上北沢村あたり(松沢病院の構内)で、湧水を集めて赤堤、松原をとおり、池尻、池沢、三宿の三村境で烏山川と合流し、目黒川と名を変る。 現在は暗渠化されその上が緑道となっているわけである。環状7号線から淡島通りまでを「ふれあいの水辺」北沢川緑道と称している。この区間は落合水再生センター(下水処理場)で、浄化した再生水(高度処理水)を利用してせせらぎが流れている。

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また、この北沢川緑道沿岸には近代日本文学を担う多くの文士たちが居住していたことから、この「ふれいあいの水辺」を『北沢川文学の小路』とも呼んでいる。作家、詩人、歌人、俳人たちが普段着姿で散策した場所になっていた。

代田に住んだ地下足袋姿の白髭斉藤茂吉は川縁を散策し、土地誉めの歌を多く詠んだ。その歌聖のすぐ近くの丘上には詩聖の終の棲家がある。萩原朔太郎は今でも残っている東電の鉄塔の下で住んでいた。彼の娘萩原葉子はこの家での凄惨な生活を「蕁麻(イラクサ)の家」(女流文学賞)に書き記している。複雑な家庭環境にあったらしい。

女流俳人第一人者中村汀女も代田の崖線で作句した。羽根木公園にその句碑がある。「外にも出よ触るるばかりに春の月」

既成の価値に対して反旗を翻した無頼派のうち三人が河畔にいた。代沢小学校の代用教員だった坂口安吾、太宰治の墓前で自殺した田中英光、昭和文学の巨城を築いた石川淳だ。

北沢八幡神社の裏手の丘に鬼才とも文学の神様とも称された横光利一が住んでいた。彼の家は「雨過山房」と言われ、、川端康成をはじめとして横光を慕う文人が多く集まった。

丘の麓には宇野千代東郷青児との愛の巣があった。モダンな白いコルビジェ風アトリエだ。彼から女性遍歴を聞いて名作「色ざんげ」が生まれた。彼女の旧居のすぐ上にいたのは「肉体の門」の作者田村泰次郎だ。日本性愛文学の驚くべき至近距離だ。コルビジェの白のすぐそばに、昔将軍も訪れた阿川家赤門がある。その丘を下がった川べりに森鴎外の愛娘、森茉莉(小説家・随筆家)がいた。

新宿、渋谷にすぐ行けるという利便性、それと丘と谷と川のある武蔵野残映がこの一帯に文人を呼び寄せたのであろう。

「北沢川文学の小路」物語より

「北沢川文学の小路」文化地図

チャリティウォーキング (羽根木公園グループ) 2009・6・29

環七宮前橋 園乗院前に10:00集合 まず詩聖と言われた萩原朔太郎旧居宅を訪れました。旧居宅跡が丘上にそそり立つ鉄塔の下にありました。この鉄塔には階段がついています。萩原朔太郎の娘萩原葉子が「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした」と書いた鉄塔です。萩原朔太郎・葉子に縁の深い鉄塔ですから北沢川文化遺産保存の会は東電に保存を申し入れ、この近辺だけ鉄骨鉄塔が現存しています。(通常送電線は都会に入ると地下にもぐります。)               

丘の上の萩原邸跡から坂をくだり、また代田川緑道(北沢川緑道)にもどり草花や樹木を眺めながら緑道を散策しました。文人たちはここで歩き、思索し、詩を詠んだのでしょう。当日は梅雨の間の晴れ間で、気温がぐんぐんあがり30度を越える暑さとなりました。水辺の木陰が気持ちよかったです。(12:00「ふれあいの水辺」を往復して園乗院前で解散)

階段の付いた鉄塔鉄塔三茶方面へ
詩聖萩原朔太郎・長女葉子ゆかりの61号鉄塔
チャリティウォーキング 羽根木グループ

(ご参考)代田川緑道(北沢川緑道)水辺に咲く花の案内別頁


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