平成20年10月26日 世田谷ウォーキング同好会
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。「水戸黄門」こと徳川光圀公が、元禄4(1691)年から同13年に没するまでの10年間を過ごした「西山荘」。西山御殿と呼ばれたこの住まいは、茅葺き平屋建ての簡素な佇まいで華美を嫌った公の人柄が偲ばれます。丸窓だけの3畳の書斎、その窓越しに「心字池」や築山が望まれるとのことです。 光圀公は江戸時代前期の水戸藩主です。勧農政策、寺社整理を中心とした宗教政策などによって水戸藩政を確立し、「大日本史」編さん事業にも着手して名君の評判を取りました。隠居して自由の身となったので社寺や庶民とも気楽に交わり、旅行などもしましたので逸話を生み、後に「水戸黄門漫遊記」となる伝説を生じました。 |
水戸黄門こぼれ話 (常陸太田市しらべ) ◆諸国漫遊はしなかった黄門さん水戸藩第2代藩主徳川光圀公は、いまも水戸黄門と呼ばれ、テレビドラマなどで広く親しまれております。光圀公は名君として知られていましたが、それに加えて、明治の講釈師玉田玉知が、助さん、格さんを連れて諸国漫遊する庶民の味方の水戸黄門に仕立てたのだから、黄門人気は増すばかりでした。 しかし、実際には黄門さんは諸国漫遊の旅はしていません。ただ、西山荘に近い久昌寺に、諸国を巡歴する虚無僧や山伏が泊まった時、光圀公は好んで彼らが見聞きした情報を聞いたという事実はあったようです。黄門さんが最も長旅をしたのは、まだ隠居をする前に、神奈川の藤沢から江ノ島、日光、勿来関、八溝山、銚子、勝山などを歩いたという記録があり、また、隠居後の元禄8年(1695年)、江戸から房州の市川、中山、成田などを経て水戸城に入ったということもありました。諸国漫遊する黄門さんのお供は助さん、格さんですが、この2人のモデルはあったようで、助さんは佐々宗淳、格さんは安積覚といい、ともに彰考館の総裁をつとめた学者だったのです。助さんの墓は、常陸太田市の正宗寺にあり、墓碑の撰文は格さんが書いています。 ◆御座の間と次の間の境に敷居がない上下の隔てを取り払った黄門さん 水戸黄門が隠居した西山荘は質素な平屋建てで、73歳で他界するまで10年間ここに住んでいました。ここで家臣たちと「大日本史」を編さんしたり、時には百姓町人と親しく話をしたといわれています。 西山荘の薄暗い玄関は6畳敷。入口は間口1間で、1枚の雨戸を片側に残して障子は1枚、7室あるどの部屋も荒壁の粗末なもので、華美なところはどこにも見当りません。そして、9畳の御座の間と10畳の次の間の境には敷居がないのです。これは上下の隔てをつくらないで、領民、百姓町人と親しく膝を交えて話ができるようにという黄門さんの配慮だったといいます。いかにも庶民派黄門さんらしいお話です
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